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知る分かると行動できるは大きく違うので

社会心理学・・・とはかなり畑が違うけれど、ちょっと読んだ本の備忘に書いておきます。

 

やりたいこと。こうしたいああしたい、そういう意欲みたいなものが年々衰えているような気がする。というか衰えてる。深刻に困るほどに。いや、年々というよりもともと足りなくて困っていたものがますます、かな。(まあ、深刻というのは自分にとってということで、世間一般のラインから見れば甘っちょろいことだと理解してはいるのですが。)

 

やりたこと、っていってもそんなに大げさなものじゃない。ちょっと時間が空いたとき、好きなことをやる、やりたいことをやる、っていう程度のもの。

でもそんな程度のやりたいことでも、ハテそれは何だろう? と呆然としてしまうことがよくある。「暇と退屈の倫理学」を思わず読破してノートにまとめてしまうほどに。そしてその種本になった ラッセルの幸福論も読破してアンダーラインを引いてしまうほどに。

 

 

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でも結論は簡単なんだ、という両書の読後感をもっていて、少しでも興味を持てるものがあったら、それに関わる行動を起こしなさい、その行動の中で新たな興味を見つけて、さらに興味の範囲と数を増やしなさい、行動なしに自分の内だけを見ていても何も新しいものは見つかりませんよ、ということだ。と思う。のだ。

 

でもほんとこれが難しい。(自分には)。やりたいことがないよお、と嘆き悩むのは簡単で、それについて考えを巡らせることも簡単。でもそして行き詰るのもまた簡単なんだよなあ。

理解すること、知ることは今までの自分の習慣から見れば当たり前のルーチンで、行動するのは当たり前でないこと、やってきていないこと。日常の自分は仕事で疲れた生活上の問題にかまけて忙しかったりするので、ふと空いた時間にさあ行動だ! とはいかないんだよねえ。(愚痴)

 

そんな状況からまた本に打開策を求めてしまって、ついつい読んでしまったのが 「人は「感情」から老化する」。何かしたい、ってのは感情だよな。感情ってそういえばどんなもんだったんだろう? と考えてしまって「感情」をキーワードに図書館にあったのを借りて読んだのだ。

 

 

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読めば知っていること、ライフハック記事になんぼでも載っていることばかりで、するする読める。手軽すぎるほどに。しかし知っている、わかっているだけではいけなくて、そこを内面に取り込んで行動に移すには、むしろこういうわかりやすさ、読みやすさって重要だよね、と感じて数回流し読みしてポイントをメモした。

そのポイントメモをさらにここに書こうというわけ。わざわざ読んでもらう必要はないことばかりなんだけど、自分にとって人目に触れるところに書くことが必要とおもわれるので、広大なインターネット空間の情報量を微少だけ増やさせてもらいたい。

 

・記憶をつかさどる海馬は、必要な情報かどうかを一カ月以内に2回以上繰り返されるかどうかで判断する。

 → 頭の中に組み込みたい、と思ったら入力、出力を反復すること。読んでわかったよ、だけで済ませない。

 

・原始的な感情は大脳の辺縁系がつかさどり、思考、意欲、感情、性格、理性など高度で人間的な感情は前頭葉がつかさどる。ゆえに人間的感情を維持し育てる(老化させない)には前頭葉への刺激が必要。前頭葉への刺激は、興味に基づいて実際に行動を起こすことによってうながされる。行動によって刺激された前頭葉はさらに興味を広げてくれるので、好循環をもたらすことができる。(意識して刺激を求めていく)

 

・最近の精神分析では、人間の基本的な欲求は「自己愛を満たすこと」にあるそうだ。それも、他者によって満たされることが最も望ましい。だから他者によって自己愛を満たさせてもらえるような場(人間関係)を持つことが重要になる。

 

・・・・こんくらいにしとこうか。

たくさんだと実際の行動に出来ないからなあ。

 

今日はこの理屈に基づいて、ちょこまか外出して前頭葉に刺激を与えてきたので、その流れで書いてみましたとさ。

 

まあ、そんなこんなでこんなところで!

 

 

 

「やばい」が変わっていくプロセス

ぼつぼつと仕事の合間に社会心理学の再勉強は進めていますが、ブログの方は見ての通りさっぱりです。書こうかな、と思うタイミングは何度かあるものの、いざ書きはじめてみると、私の思考と文章の癖なんでしょうが、やたら抽象的になる傾向がある。でも読み手としては具体的なものが好きなんですよね。はてなの読者登録しているブログを見ても一目瞭然で、生活感があって地に足ついているというか、生きている手触りや感覚があるというか、そういうものが好き。だから自分の書くものが好きでなくやる気がでない・・・という 。
 
ただ今回ちょっと思いついたことがあるので、それを書いておきます。まあ、何も書かないよりはマシ程度で。
 
 
○○○
 
言葉というのは、人によって受け取り方が違う。同じ「家庭」という言葉でも、幸せな家庭に恵まれた人はプラスの意味にとらえるだろうし、そうでない人はマイナスの意味にとらえるかもしれない。
お互いの背景に背負っている文化が違うと、それぞれの内面に構築されている世界観も異なるわけで、だからコミュニケーションの場では一つの言葉についてこまかなニュアンスのズレが当たり前のように発生する。それをやり取りの中でお互いの許容範囲程度になるよう焦点を合わせていくプロセスそのものがコミュニケーション、とも言えるわけです。
 
そのズレが集団ごとに固定化する場合があって、よく話題に上るのは、若者/大人という集団区分での言葉の意味、使い方の違い。たとえば一昔前の「やばい」がそう。一定の年齢より上の集団では「あぶない」「危険」「危機」などの意味を持つが、一定より年下の層では「すごい」「最高」「素晴らしい」など賛辞として使用される、という二層化された状態が一時期あった。(今もあるかな)
 
で、この「やばい」が「最高」など賛辞としてプラスの意味を持っていったプロセスについて考えてみました。
 
賛辞は音楽や料理の味など個人が心に受けた感動を表現する時に相手に向かって送られますが、若年層と大人層では発信者の意図するところにそもそもの傾向の違いがあると思うんですよね。
自分を振り返って思うんですが、若いころは自分の心をつかんだ感動については、出来るだけ率直に、いいものはいい、感動したものは感動した、と自分の真情に沿ってストレートに表現することを主眼に置いていたと思う。それが相手のために自分がするべきことと思っていた。
 
けれど年齢を重ねると、配慮しなければならない範囲は広くなり、対人関係を維持する責任も重くなる。だからたとえばカラオケで大してうまくもない上司の歌に「最高!」などと声をかける人もいるだろうし。私は・・・それはないけど、場の雰囲気を盛り上げるために必要なことだと理解できるし、聞いたとしてもさほど嫌な感じは受けないと思う。
素晴らしい成果を出した人に賛辞を贈るのは大切だけど、そうでなかった人に賛辞を贈るのも悪くはない。例えば知り合いの子供の音楽の演奏には、期待値込みで「すごいね!」などとおまけをつける。
もしそういうことはよろしくない、自分が心に響いた良いものだけを選び称賛する、などとという厳しい態度で様々な場に臨んでしまったら、その場その場が競争・コンクールの場になってしまって、その人の周りの人は落ち着けなくなってしまう。それはそれで困ったことだ。
 
ところがさらに逆に、そんな建前系の「最高!」は、純粋に賛辞を送りたい側の人間からすると、「同じ言葉を使ってくれるなよ」「こっちは真剣なんだから」ってことになると思う。場合によっては、生理的な嫌悪感さえ抱かれかねない。
 
その「大人層が発する”最高!”という言葉と一緒にされたくない若者たち」がどういう行動に出るか、というと、「新しい言葉の創造」ではないでしょうか。自分たちの心情に即した言葉で、なおかつ他の解釈を入れられないような言葉。そういう中で編み出されたのが”やばい”を賛辞の意味あいで使う、という自己表現行為ではないかと。
 
”やばい”は、「自分が危険を感じるほど」ということで、「心の底からの感動」につながるニュアンスがあるし(反語的な強調によるより強力な賛辞表現)、一般に流布されている意味合いでは否定的な言葉なので、大人層が使うことは(当分のところ)考えられなかった。だから心からの賛辞という新鮮味が必要な言葉として選ばれ生まれ、その言葉の創造に共感する人間が増えていって定着した・・・という推測です。
 
 
個々人の対象に対する判断の枠組みを準拠枠などと呼ぶそうですが、上の私の推測がある程度的を得ているとすれば、この「最高!」など賛辞にかかわる言葉の準拠枠は、若者集団と大人集団ではそもそも大きく異なっていた、と言えるわけです。
準拠枠の異なる言葉の相互理解におけるズレは、コミュニケーションのやり取りの中でお互いに修正をはかっていく、ということを冒頭で述べましたが、集団間で発生しているズレが固定化されていて、それが心情的に重要な言葉についてのことだった場合は、文化の一部を変容させるという大きなコストをかけてでも「まったく違う言葉に変えてしまう」というような形で、(コミュニケーションの場の個人同士ではなく)集団として文化的にズレの修正がはかられるのではないでしょうか。・・・って考えたんですよ。
 
同じようなことは、例えばネットでもあるかもしれない。実名が主のFacebookの「イイネ!」は人間関係に配慮した”建前系の最高!”に近いかもしれないけど、匿名性の高いサービスでの「イイネ!」的クリックの使われ方は、”本音系最高!”に近いかもしれない。(たとえば自分でいえば、はてなでの購読ブログの選択は単なる自分の趣味に特化して選んでいるし、スターのつけ方も文章の内容だけに注目しているけど、Facebookでは相手の人物との関係性に比重がかかってると思う)
で、この場合はすでにサービス別に使われる言葉は分かれているから、逆に「イイネ!」的クリックのつけられ方、使用のされ方を指標として、そのサービスのユーザ間に配慮すべき人間関係が構築されているかどうかを見ることができる、なんてこともできるかもしれない。・・・って思いました。
 
ま、こんなことを考えて書いてみても、何がどうするってことはまったくないんですけどね。
 
ままままま、それではまあ、そんなこんなでこんなところで!
 

Eテレ 大心理学実験 / 自分が頑張ってると思ってるほどには実は頑張れてない現象など

ブログ書こう書こう、と思いつつここを放っている間に、いったいどれだけ時間がたってしまったかわかりません。。。。大昔は少しは書いたりしていたんですがね。しばらく書かないと始めるのにやたらとハードルがあがってしまう。

 

 そもそもはてなブログを書いてみようかな、と思ったのは、書かずに読んだりコメントつけたりしていると、ちょっと気が引ける感じがあるから。

なんかこう、書き手の人は自分の考えや感じたこと、人となりをオープンにしているのにこちらはほぼ何も出していないわけで、コミュニケーション上のバランスがとれてない感がどうもひっかかる。もちろん個人的な感覚に過ぎませんが。ともかくそこをまあ、ちょっとだけ是正しようかな、と。そのくらいのモチベーションです。

 


何を書くか、については、学生時代に社会心理学を専攻していて、中年期になってぽつぽつ(ほんとにポツポツ)再勉強しているので、それに絡んだことなどを、と思ってました。つまりは素人談義。残念ながら正確性などを担保できる能力に欠けますので、その点ご容赦ください。せめてもに出来るだけ参考資料をあげておきますので、そちらで確認してもらえればと思います。

 

 

 

あ、さて。

 

先日、Eテレで「大心理学実験」という30分番組が放送されまして、これが日本社会心理学会広報委員会のtwitterで事前に告知されていました。実験そのものを見れる機会はなかなかないですから、録画して見ましたよ。

 [NHK 大心理学実験]

http://www4.nhk.or.jp/P3367/

 

それにしてもなんでNHKが突然こんな番組作ったのか、そしてなぜナレーターが松任谷由実? という疑問は残るものの、せっかくだから今のうちになにかコメントでも書いてみよう、というわけです。(そうでもしないといつまで経ってもブログ書かない(書けない))


(番組内容は関西学院大の三浦麻子先生がこちらにまとめてくださっています。 https://sites.google.com/site/jssppr/discover_psychology )

 

 


○実験1;社会的手抜き(social loafing)

 

平たくいうと、一人でやったら100%の力を出すのに、同じことを集団でやったらそれぞれ90%だとか80%だとかより小さい力しか出さない(出せない)現象を指します。

 直観的に納得できることなので、だからどうなのという視点でいうと、その理屈をどう考えたらいいかが問題なのだ、ということになりますかね。
で、結論を先に書くと、その原因のひとつは「相互調整のロス」であり、もうひとつは「責任の拡散が起こって、課題に取り組む動機づけが低下」するから、というものです。

 


番組の実験では力自慢たちがトラックを引っ張る、という架空の課題を出して、一人で引いたときに出した力と、複数人で引っ張った時の個々人の力をこっそり計測して比較してました。結果はもちろん結論通りで、一人で引っ張るときの方が大きな力を出していて、複数の場合は全力を出しているつもりでも実は手を抜いてしまっています。

 見た感じ、一斉に力を合わせてトラックを引っ張るのは簡単ではなさそうで、低下した10%だか20%分は、互いにコミュニケーションとるためのリソースをそっちに使っちゃったんじゃないのお? と見ることもできました。つまり「相互調整のロス」がすべての原因では? と見れなくもない。

 けれど番組ではボディビルダー軍団とサッカー部軍団でテストをしていて、同様の結果が出ていたから、"チームワークがいいはずのサッカー部でも起こるってことは、コミュニケーションのためのロスだけじゃないってことだよね?" という理解でいいんでしょう。

 


問題は「責任の拡散」の方で、これは決して意識的な手抜きや責任転嫁とは次元の違うものだということが、少しわかりにくかったと思う。(前述の三浦先生の解説だと、「無意識に手抜きをしてしまう」という部分)。

 まあ、番組にケチをつける立場ではないのでそれはそれでいいとして、上で”社会的手抜きは直観的に納得できることなのでうんぬん”、と書いたけど、この「意識的でない」という部分はどうでしょう。自分たちが日常生活で「社会的手抜き」を目撃した時、それを「意識的な行為ではない」と直観的に考えるもんでしょうか? 


「あいつら、大勢でやってるからって一人一人は手を抜いてやがる」
「バレないと思ってズルしてんだな」
「自分さえよければ、周りのことはどうでもいいのか」
「けしからん」


部下たちを眺めてる上司だとか。上司たちを眺めている部下だとか。

集団で課題を遂行せねばならん! という場面では皆に相応のストレスがかかっている場合が多いから、むしろ意図的(悪意)であると解釈してしまう場合が多いんじゃないでしょうか。

 


そもそもの話になりますが、人間には意識的に判断したり行動したりする意識的過程と、意識にはのぼらず、いわば自動的に判断・行動してしまっている非意識的過程というものがある。そうです。
ふだん私たちが生活していると、後者の非意識的過程は文字通り意識されないので、私たちが主観的にだけ生活している限りでは”無い”または”ありえない”現象だととらえられてしまっている。らしい。

 そして集団行動においては、”生理的覚醒といった低次なレベルの過程が集団行動の基礎にあるという事実は重要”(有斐閣「New Liveral Art Selection 社会心理学」 P-190)だそうです。

 

つまり人間が集まって何かをする時には、私たちの意識だけでは把握できないことが、知らない間にたくさん起こっている、ということ。

だから人間関係は難しい、理屈で割り切れないことだらけだと感じられるわけで、それはこの「社会的手抜き」現象の周辺でも同じなんでしょう。

 

そりゃあ、他人から見たら明白に手を抜いている人間が、そうとは認識していない、むしろ自信をもって善意の場合があるわけですから。日常的なコミュニケーション・トラブルの一因になってるでしょう。

中でも特にややこしそうなのは、「観察している側も、その社会的手抜きをしている集団の一員として働いている」場合でしょうか。

 「手抜きしているだろ!」って仲間を告発した本人が、逆の立場から見たら「あんたの方が手抜きだろ!」と指摘し返される。
でも実は、お互いが誠心誠意全力を尽くして努力している。少なくともそう信じている。

 

「俺は皆のためにこんなに頑張ってるのにアイツは・・・!」
「こんなに頑張ってる俺に向かってアイツは・・・!」

 

自分自身も知らない間にこういう負の相互作用に巻き込まれて、ストレスため込んでることもあるんじゃないかなあ--などと考えます。まあ・・・ある・・だろうな、きっと。うん。きっとある。

 
逆に、ある程度人間が練れてたりすると、むしろ「集団で作業したら手を抜いちゃうのが当たり前」であることが、経験的に真実だと理解できるようになってるかもしれません。

「本人は手を抜いているとは思ってないんだろうなあ。まあいいか、きっと俺もそうだし・・・」などと。

いずれにしろ、相手の「手抜き」が意識的か非意識的かを明らかにすることは非常に難しいから、その場その場で少ない手がかりを元に、なんとかとりあえず考え、判断していくしかない。だからたくさん間違う。だからたくさんトラブルになる、と考えるわけです。

 

ところで、そもそも社会的手抜きが起きるのは、

・個々人の力を加えた結果が集団の結果になる、という課題
・個人の成果が問われない

場合によくおこるとのこと。

 

だから逆に言えば社会的手抜きを抑えるためには、

①各個人の貢献度の判別 (誰がどのくらい貢献したかわかるようにする)
②各個人の貢献度の評価 (どのくらい貢献したかによって評価を与えてあげる)
③成員の関与をあげる  (メンバーのコミュニケーションを密にしたり、結束力をあげようとしたりすること、かな?)
④課題の魅力をあげる  (皆がやりたいと感じる魅力的なことだったら、大勢いても手抜きはしない)


というふうに、環境や条件を変えてやればいいんだそうです。

つまり、先の「相互調整のロス」の解決も含めてまるっとした表現にしてみると、

”グループ・チームとしてのレベルを上げればいい(上げないといけない)”

だと言えるんじゃないでしょうか。

 

それを証明する実験結果が、番組中では綱引き連盟のひとたちがトライすると、手抜きを行わなかった、というもの。

綱引き連盟のメンバーは、トラックを引くというモチベーションも高いし、綱を引くという分野におけるチームとしての機能・まとまりのレベルもすでに高いから、手抜きを行わない。だから集団としてのパフォーマンスにおいて、質・量ともにベストを尽くせる。
 
 
先に書いたように、私が「社会的手抜き」で気になったのは、いかにパフォーマンスをあげるかよりも、いかに社会的手抜きに起因するディスコミュニケーションを防ぐか、でした。
から、空中分解を防ぐという意味でチームのレベルをあげる、つまり上の①~④の社会的手抜きを低減するための項目を、お互いコミュニケーションとって、共通理解として実現していかないといけないな、という考えになるのです。
なかでも気になるのは、家庭や夫婦の場合。
 
「社会手抜き」現象から推測できるのは、普通に生活していると個々人は ”自分が頑張ってると感じている感覚” で仕事の分担の度合いをはかっているので、仮に正確に公平に分担されているとしても、「(相手は)もっと出来るはずなのに。(私は十分頑張ってるけど)」という風に「相手の方が得をしている」と感じ続けてしまうだろう、ということです。
 
事実上公平な分担だとしても、感情的には常に不公平感がつきまとう。それが、人間として当たり前の現象。しかしそれでは出口がない。
 
 特に家庭では大人はみんな当事者ですからね。第三者がディスコミュニケーションに気づいてくれる可能性のある職場より、ずっと状況は良くないんじゃないでしょうか。
 

そこから脱出するためには、発想自体を切り替えて、ひとつのチームとしてどう課題をクリアしていくか、に焦点を合わせていく必要があると思います。

まあ、口でいうほど簡単な解決策ではないし、ごく当たり前の結論でしかないですけど、うまくいっている組織、家庭のイメージからすると、上の①~④が機能しているように感じるんですよね。
 
具体的に書いてみると、
①お互いが何をやったよ、と声を掛け合ったり、これやってくれたんだね、と気づきを伝えあったり 
②ありがとう、助かったなどと、その仕事に報いるよう都度お礼を言いあったり
③その仕事やお互いへの関わりを強くし続けたり
④その仕事をする価値についてお互いよく話し合ったり。(やらなかったらどうなるか、とか)
 
そんな感じ?
 
繰り返しになりますが、いかんせん無意識レベルの感情がからむことので、いざ行動に移すことは言うほど簡単ではないと思います。(頭では分かっていても、気持ちがついていかない)。また個々の職場、家庭の状況など、ケースにより一概に言えない場合も多々あるでしょう。
でも一方、実は他にいい方法なんてなくて、案外一番の近道だったりするかも、などとも思うのです。(実際のところどうなんでしょうね)

 


ところで、集団で作業すると社会的手抜きが起こるばかりではないです。逆に、集団の成果が個人にとって重要な意味を持つ場合や、他のメンバーが役に立たん!みたいに思えた場合は、それを補うように努力の度合いを増やす「社会的補償(social compensation)」という現象もあります。

「皆がどうかは知らんが、俺はやるぞ!」

「皆がやらんのなら、俺がやる!」

って感じでしょうか。(やる気を出す言葉はなぜか島本和彦調になる・・・)

 

 あと、「社会的促進(social facilitation)」という現象もあって、自転車のレースや釣竿のリールまき競争など、単純な課題の場合は他者と競争したり、他の人が見ている(観察者がいる)場合の方が、一人でやるより力を発揮できるんだそうです。

「アイツがやるなら俺はもっとやるぞ!」(やっぱり島本調)

まあ、集団としての人間も捨てたもんじゃないってことでしょうか。

 


また、こうして社会的手抜きを低減させ、生産性があがることはめでたいことではあるんでしょうが、それは一面的なこと、という指摘もあるようです。

 進化生物学の研究を行っている長谷川英祐准教授は、アリの研究で「働かないアリ」が集団としての「余力」を蓄えて、集団の維持に貢献している、と指摘しているそうです。


http://www.yomidr.yomiuri.co.jp/page.jsp?id=92420
http://www.athome-academy.jp/archive/biology/0000001082_all.html


まるっと言うと、社会的手抜きは単に休んでいるだけではなく、サッカーの交代要員のように、いざ自分の出番が来た時のために力を蓄えているのだ、という話し。また、短期的にはともかく、長期的にはそういうメンバーもいないとグループ全体がすぐに疲弊してしまうから、維持が難しくなるでしょ? 手抜きを悪くばっかり言うもんでもないよってなことです。かな。

蟻とヒトが同じように言えるかなど詳しいところはともかく、これも納得感のある話。

 

・・・・結構長文になりますね。番組の3テーマのうち、まだひとつしかこなしてない。しかも番組放送からすでに時間がたちつつある・・・。というわけで、二つ目の印象形成については簡単に。

 


○実験2;印象形成(impression formation)

 

人間は人の魅力を、ごく少ない情報を手掛かりに、推測しながら作っていく。だから事前情報や第一印象って大事だよ、っていう、これもよく知られた現象。その実験のひとつに、プロフィール写真に笑顔のものを使ったら、当然に好印象を持たれた、というものがありました。

 これ、プロフィール写真は笑顔を使え、ということではなく、むしろ普段どうやって笑顔で過ごせるか考え、行動していくか、というのが正しい教育番組としてのメッセージのとらえ方だろうなあ、って思いました。(なんせEテレだし!)

 

周囲の人に好印象をもってもらうと、人間関係での幸福感は増すだろうけど、誰といつ初対面になるかはわからないし、そもそも無理に笑顔を作っていたら自分がしんどいのは明らか。やっぱ 自然に笑えるような生活や考え方、人付き合いの仕方だよね、と。

 

他人への印象をよくしようう、ってところに焦点を当てて努力してしまうより、自然な自分のあり方を見直す  ーーー 部屋をやすらげるように変えていくだとか、食事が偏らないようにする、運動をしてストレス発散をするとか・・・うーん教育テレビ(笑)な感じの、”つまらない、当たり前すぎる考え方” の方が「普段が笑顔」な生活への近道のような気もするんです。


・・・我ながら長いな・・・長すぎる・・・なので三つめはまた機会があったときにします。ね。

 

 
それではまあ、そんなこんなでこんなところで!

 

【今回参考にさせてもらった本】

社会心理学 (New Liberal Arts Selection)

社会心理学 (New Liberal Arts Selection)

 

 

心理学 (New Liberal Arts Selection)

心理学 (New Liberal Arts Selection)