「やばい」が変わっていくプロセス

ぼつぼつと仕事の合間に社会心理学の再勉強は進めていますが、ブログの方は見ての通りさっぱりです。書こうかな、と思うタイミングは何度かあるものの、いざ書きはじめてみると、私の思考と文章の癖なんでしょうが、やたら抽象的になる傾向がある。でも読み手としては具体的なものが好きなんですよね。はてなの読者登録しているブログを見ても一目瞭然で、生活感があって地に足ついているというか、生きている手触りや感覚があるというか、そういうものが好き。だから自分の書くものが好きでなくやる気がでない・・・という 。
 
ただ今回ちょっと思いついたことがあるので、それを書いておきます。まあ、何も書かないよりはマシ程度で。
 
 
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言葉というのは、人によって受け取り方が違う。同じ「家庭」という言葉でも、幸せな家庭に恵まれた人はプラスの意味にとらえるだろうし、そうでない人はマイナスの意味にとらえるかもしれない。
お互いの背景に背負っている文化が違うと、それぞれの内面に構築されている世界観も異なるわけで、だからコミュニケーションの場では一つの言葉についてこまかなニュアンスのズレが当たり前のように発生する。それをやり取りの中でお互いの許容範囲程度になるよう焦点を合わせていくプロセスそのものがコミュニケーション、とも言えるわけです。
 
そのズレが集団ごとに固定化する場合があって、よく話題に上るのは、若者/大人という集団区分での言葉の意味、使い方の違い。たとえば一昔前の「やばい」がそう。一定の年齢より上の集団では「あぶない」「危険」「危機」などの意味を持つが、一定より年下の層では「すごい」「最高」「素晴らしい」など賛辞として使用される、という二層化された状態が一時期あった。(今もあるかな)
 
で、この「やばい」が「最高」など賛辞としてプラスの意味を持っていったプロセスについて考えてみました。
 
賛辞は音楽や料理の味など個人が心に受けた感動を表現する時に相手に向かって送られますが、若年層と大人層では発信者の意図するところにそもそもの傾向の違いがあると思うんですよね。
自分を振り返って思うんですが、若いころは自分の心をつかんだ感動については、出来るだけ率直に、いいものはいい、感動したものは感動した、と自分の真情に沿ってストレートに表現することを主眼に置いていたと思う。それが相手のために自分がするべきことと思っていた。
 
けれど年齢を重ねると、配慮しなければならない範囲は広くなり、対人関係を維持する責任も重くなる。だからたとえばカラオケで大してうまくもない上司の歌に「最高!」などと声をかける人もいるだろうし。私は・・・それはないけど、場の雰囲気を盛り上げるために必要なことだと理解できるし、聞いたとしてもさほど嫌な感じは受けないと思う。
素晴らしい成果を出した人に賛辞を贈るのは大切だけど、そうでなかった人に賛辞を贈るのも悪くはない。例えば知り合いの子供の音楽の演奏には、期待値込みで「すごいね!」などとおまけをつける。
もしそういうことはよろしくない、自分が心に響いた良いものだけを選び称賛する、などとという厳しい態度で様々な場に臨んでしまったら、その場その場が競争・コンクールの場になってしまって、その人の周りの人は落ち着けなくなってしまう。それはそれで困ったことだ。
 
ところがさらに逆に、そんな建前系の「最高!」は、純粋に賛辞を送りたい側の人間からすると、「同じ言葉を使ってくれるなよ」「こっちは真剣なんだから」ってことになると思う。場合によっては、生理的な嫌悪感さえ抱かれかねない。
 
その「大人層が発する”最高!”という言葉と一緒にされたくない若者たち」がどういう行動に出るか、というと、「新しい言葉の創造」ではないでしょうか。自分たちの心情に即した言葉で、なおかつ他の解釈を入れられないような言葉。そういう中で編み出されたのが”やばい”を賛辞の意味あいで使う、という自己表現行為ではないかと。
 
”やばい”は、「自分が危険を感じるほど」ということで、「心の底からの感動」につながるニュアンスがあるし(反語的な強調によるより強力な賛辞表現)、一般に流布されている意味合いでは否定的な言葉なので、大人層が使うことは(当分のところ)考えられなかった。だから心からの賛辞という新鮮味が必要な言葉として選ばれ生まれ、その言葉の創造に共感する人間が増えていって定着した・・・という推測です。
 
 
個々人の対象に対する判断の枠組みを準拠枠などと呼ぶそうですが、上の私の推測がある程度的を得ているとすれば、この「最高!」など賛辞にかかわる言葉の準拠枠は、若者集団と大人集団ではそもそも大きく異なっていた、と言えるわけです。
準拠枠の異なる言葉の相互理解におけるズレは、コミュニケーションのやり取りの中でお互いに修正をはかっていく、ということを冒頭で述べましたが、集団間で発生しているズレが固定化されていて、それが心情的に重要な言葉についてのことだった場合は、文化の一部を変容させるという大きなコストをかけてでも「まったく違う言葉に変えてしまう」というような形で、(コミュニケーションの場の個人同士ではなく)集団として文化的にズレの修正がはかられるのではないでしょうか。・・・って考えたんですよ。
 
同じようなことは、例えばネットでもあるかもしれない。実名が主のFacebookの「イイネ!」は人間関係に配慮した”建前系の最高!”に近いかもしれないけど、匿名性の高いサービスでの「イイネ!」的クリックの使われ方は、”本音系最高!”に近いかもしれない。(たとえば自分でいえば、はてなでの購読ブログの選択は単なる自分の趣味に特化して選んでいるし、スターのつけ方も文章の内容だけに注目しているけど、Facebookでは相手の人物との関係性に比重がかかってると思う)
で、この場合はすでにサービス別に使われる言葉は分かれているから、逆に「イイネ!」的クリックのつけられ方、使用のされ方を指標として、そのサービスのユーザ間に配慮すべき人間関係が構築されているかどうかを見ることができる、なんてこともできるかもしれない。・・・って思いました。
 
ま、こんなことを考えて書いてみても、何がどうするってことはまったくないんですけどね。
 
ままままま、それではまあ、そんなこんなでこんなところで!